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ルサカ赴任-成田からルサカへ出発

1986年8月6日、ルサカへ赴任の日となった。今はもうどうやって空港まで行ったか覚えていないが、きっと一番リーズナブルだった京成だったのではと思う。京成線は今でこそ成田空港まで乗り入れているが、当時は、成田空港の手前で降り、連絡バスで空港まで行った。そして、空港の手前で降ろされセキュリティチェックがあった。ターミナルは当然ながら第1だけだった。

ルサカまでの我々のフライトルートは、成田ーロンドンーナイロビールサカ、航空券は当然ながら片道。利用航空会社は、成田からロンドンまでが日本航空(記憶が薄い、ここもBAだったかもしれない)、ロンドンーナイロビがBritish Airways、ナイロビールサカがZambia Airwaysだった。

成田空港にて (Aug.6, 1986)

1986年8月6日、ザンビア派遣同期15名で一路ロンドンへ出発した。出発まで約3週間はあっただろうか、身辺整理期間と称して赴任の準備、帰省、県庁への挨拶などを行なった。既に、4月に始まった訓練期間に先立ち、東京のアパートを引き払い家財を実家へ送っていたので、身軽だった。単身赴任の身軽さとはいえ、知らない世界へ飛び込んでいくのだから何があるかわからない。さらに、日本でのこれまでの関係を整理しての出発だから不安を抱いていないことは無かっただろう。出発に際して、友人が見送りに来てくれた。フライトは夜の出発、アンカレッジ経由ロンドン行きだった。

narita narita1986
チェックインの様子 見送りに来た友人たちと

アンカレッジ経由ロンドン行き

冷戦構造真っ只中、ヨーロッパへのフライトはソ連(シベリア)上空の北極ルートを飛べなかったため、 アラスカのアンカレッジで給油しヨーロッパ各都市へ飛んでいた。成田から、8−9時間でアンカレッジ、そこから6時間でロンドンといった具合だった。したがって成田からロンドンは16時間はかかったと思う。

アンカレッジ空港でのトランジットは、ほとんどが日本人だった。だからだろうか、うどん屋もあったと思うし、また、このうどん屋が混んでいた。食べようと思わなかったが、不思議な印象だった。

このルート、運がよければマッキンレーが見えた。

ロンドン・トランジット(予定通り)

ロンドンには早朝到着した。夕方のフライトまで、デイユースのホテルが取ってありそこで出発まで休むこともできたのだが、物見遊山、ロンドントランジットを満喫しようと市内へ出かけた。空港の観光案内所で一日チケットを購入しておいたので、これを使ってロンドン市内まで足を伸ばした。

ホテルで地下鉄駅への行き方を教わったのだがどうもおかしい、延々と歩いたのだけど駅が出てこない。途中でダブルデッカーに飛び乗った(Bus map)。そしたら何とか地下鉄駅に着いた。そこから、Piccadilly線でLeicester Squareまで、Northern Lineに乗り換え一つ目のTottenham Court Roadで降りて(Tube map) 、1983年に初めて海外旅行したときに立ち寄ったロンドン大学へ足を向け、近くの本屋に立ち寄った。ホテルまではどうやって戻ったか覚えていないが多分ヒースローまで地下鉄で行きホテルバスに乗ったのだろう。このまま留まりたい衝動に駆られたがこればかりは致し方ない。

ロンドンヒースロー、BAが遅れる1986年

ナイロビへのフライト、BAの出発が遅れ、ヒースローで待ちぼうけ。

ナイロビ・トランジット(予定外)

ロンドンでナイロビ行きのBAが遅れたため、ルサカ行きのケニア航空に乗れなかった。よって、ナイロビに泊まることになった。ホテルは、インターコンチネンタル、航空会社が用意してくれたのだが、BA持ちなのだろうか?予定外のナイロビ一泊は、旅行気分たっぷり、ナイロビを散策した。

ナイロビ ナイロビ空港
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3日目にやっとルサカ着

ルサカに到着したのはすっかり日が暮れ頃だった。本来は夕方に到着予定だったが、再度、ナイロビでフライトが遅れたのだ。やっと着いたという長旅の印象だった。着陸し滑走路を移動しているときに窓から外を眺めたが暗い。飛行機が所定のポジションに停車し、タラップが付けられドアが開いた。一歩外へ出たとき、煌々とした照明に照らされ、タラップを一歩一歩降りたことを覚えている。そして、熱帯高地特有の乾燥した涼しい気候は心地良かった。

 

イミグレーションでは、入国書類を書いてスタンプを押してもらい、荷物も問題なく受け取り、JICA事務所から出迎えに来ていた調整員とミニバン数台に分乗して、空港から暗い一本道をひた走り、交差点を右に回り、また、ひた走り、町の明かりが見えた頃、脇道に入った。そこが、JICA事務所兼ドミトリーだった。


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