東部州チパタ(Chipata, former Fort Jameson)へ
ペタウケでストップオーバー、チパタへ
いつだったかはっきりと覚えていないが、ルサカに住んでいる同期でチパタへ行こうという話が持ち上がり、よっしゃよっしゃとあっという間に行くことになった。気の合う仲間がチパタに住んでいて彼らが任期満了する前だったから、1987年の5月か6月だったのだろう。ルサカからバスでチパタヘ発った。
私は、途中、ペタウケで理数科教師をしていた隊員を訪問した。チキンを一羽ローストして歓待してくれた。翌日またバスでチパタヘ向かった。チパタでは、薬剤師をしている隊員がおり、ルサカの同期とここで合流。そこにみんなでお世話になった。
集まれば飲み会が始まるのは世の常。いつもはルサカでやっていたのでこのときは河岸を換えたということになる。ザンビアの地方の場合、概ね貸与される住宅が大きいのでこういう時は非常に助かる。泊まる場所が確保されていれば何ら不自由がない。それに酒と食糧はお金さえあれば比較的容易に調達が出来た。(酒は飲めないが。)
このときは、こんな調子で人に会いに行ったのとどこへ行くにも案内されたのでチパタのことはほとんど記憶に残っていない。
後から知ったことだが、チパタは北ローデシア時代フォート・ジャイムソン(Fort
Jameson)と呼ばれていた。ザンビアでは北ローデシア時代の地名(リビングストンなど)が継承されている都市もあるがチパタのように変更された(ブロークン・ヒル
Broken Hillなど)都市もあるようだ。写真は1988年6月、グレートイーストロード路肩のバオバブ。
ムチンジ(Muchinji)の国境を越えてブランタイアへ
牧師がブランタイアまで車で行くという話をチパタの隊員が聞きつけ、マラウイへ行くチャンスだというので便乗することにした。ムチンジの国境を越えてM2を走ってブランタイアまで行った。そこでまた同期のお世話になりブランタイアを散策して同じ経路でチパタヘ戻った。(1987年3月)
チパタからのルサカ戻る途中、UBZバスがブレイクダウン
バスがブレイクダウン
チパタで一泊してからバスでルサカへ帰った。途中、バスがブレイクダウンし、からルサカの近くまで人があまり住んでいない。バスがそこでブレイクダウンして5−6時間足止めされた。ニンバを過ぎた辺りで人里からはかなり離れている印象だった。
運転手はルサカまでバスを取りに行くといってヒッチハイクして行ってしまった。我々乗客はそのままそこに取り残されて待てど暮らせど迎えがこない。ルサカまで行って戻ってくるのも少なくとも4−5時間はかかる距離だから仕方がなかった。そのうち,日が落ち暗くなってきた。バスの中も同じこと。わびしくなるものだ。
ザンビア人は慣れたもので何とかなるさとまったく動じない。あの辺りはほとんど人が住んでいないエリアで、日が沈みかけたときにザンビア人の男たちがライオンが来るといけないからと薪を拾ってきて火をおこしていた。隣のおばさんは荷物から煮たピーナッツを出してきて、食べなといって少し分けてくれた。空腹だったのでこれはありがたかった。
そう、やっぱり5−6時間たった頃だろう。バスらしい車がきた。乗客全員、迎えにきたバスに乗り換えルサカへ。着いたのバスセンターに着いたのはもう深夜だった。そのままタクシーでアパートまでもどった。
2回目のチパタは、車で
任期終了間際の1988年6月にもチパタヘ行った。前回のブレイクダウンが懲りていたのだろう、そのときは車(ニッサンサニー所有の大使館料理人と)を飛ばして行った。グレートイーストロードを真東へ、障害物が少ないので直ぐにスピード感がなくなる。150キロ程度でも差ほどスピードが出ているとは感じなかった。メーターを見てあわててアクセルを緩めたほどだ。こんなスピードで道路に穴でもあったら吹っ飛んでしまうだろう。運転にはくれぐれも気を付けたい。
このときのチパタは、リロングエまで行き南アのビザ取得をと考えていたが、パスポート切り替え後、スワジランドのビザ取得手続きをしていたので間に合わず結局足を延ばせなかった。
あまり記憶が定かではない。。