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職場-公共事業省建築局

Buildings Department, Ministry of Works and Supply

1987年、クリスマス前に職場で小さなパーティがあった。私が務めていた職場の名称は日本語に訳すと「公共事業省建築局」、その主要な部署は外国人が担っていた。インド人コントラクターや英国政府から派遣されている技術者(インド人)、ドイツ、ベルギーのボランティアー建築技師、ポーランド人、ロシア人、そして日本人と多彩な国籍の職場だった。部屋を覗かないとなかなか誰が働いているのかわからないがこのときは一同集り、職場の人を知るいい機会だった。
(写真はASAの設定が間違っていた。よって、写りは良くない。悪しからず)

左Worfgang(ドイツ人),

Mouma (イラク人)

とウガンダ人スタッフ

右インド人スタッフ

インド人とスリランカ人スタッフ

ザンビア人とロシア人(真中)

ベルギー人夫妻とザンビア人スタッフ

ザンビア人スタッフ

Senior Architect4

仕事をしているように見えるが、写真を撮っただけ。こんな風に図面を書いていたことはあるが。


イベント、パーティ等

ルサカに住んでいると、時々、イベントがあった。この時は物産展か産業展だったと思う。

 

米国大使員宅でのパーティへ出席、通常はあり得なかったが職場のJOCV同僚の縁で出席した、公式な集まりとして米国大使館の招待状が届いた、カジュアルだがジャケットとネクタイは必須だった。一緒に映っているのは真ん中は東ドイツ大使館員夫妻、1989年11月にベルリンの壁崩壊、その後、東西ドイツが統一、ドイツの外交官となったのだろうか。

Reunion

ノースミードのマーケットで誰かが巨大なスイカをゲットしたので、蔦澤家に集まり皆で食した、麻雀の合間に。

南京から来ていた中国人医師団

中国政府からザインビア政府、多分、軍に派遣されていた来ていた南京の人民解放軍の中国人医師団(医師は女性一人だったような記憶)とカフエリバーへピクニック行った。MCとUTHの繋がりだったとおもう、中国食材をたくさんもってきて、カフエ川岸でみんなでランチをした。日本人はUNDP職員の他はJOCV関係者だった。言語は片言の英語と中国語の筆談だった。

中国人医師団の中には東洋医学者もいて鍼灸師も含まれていた。私はお世話になることはなかったが、交通事故の後の打撲症のひとが時々鍼を打ちに行っていいた。

彼らは非常に友好的で言葉がもう少しわかったならもっと深くお付き合いが出来ただろうにと思ったもんだ。彼らのが先に離任することになり、その時に外貨ドルがほしいという要請があり手持ちのUSDを彼らのクワチャに交換した。今では考えられないが1980年代は中国は外貨不足だったし、何でも外貨が優先していたようだ。

 

隊員総会準備

1987年4月、パモジホテル最上階の会議場を借りて隊員総会の準備のために関係者が集まり、運営方針や議題について話し合った。

   

荒巻母来たる

左、といっても私のではない。右はケニアからのゲスト。


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