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ザンビアのことなど、備忘録的に

ザンビアの位置

Zambia

派遣先の連絡が来て”ザンビア”?、アフリカの国だけど・・・と地図を見直した。南部アフリカ、旧英国植民地、北ローデシア、内陸国などなど、意識的にも遠い国でした。

1986年当時の人口は650万人、首都はルサカ(人口65万人)、公用語は、英語でしたが多数の部族語、ルサカはニャンジャ語などなど。南十字星が輝く熱帯高地でした。赴任先は、公共事業省建築局、所在地はルサカなどなど、まったく未知の国でしたね。
ザンビアは、左の地図を見てわかるように、アフリカのど真ん中よりやや南、海には面していません。赤道が表示されていませんが、南半球に位置します。南緯15度20分、東経28度14分、標高1274m(空港)。

Latitude: 15° 20' South 
Longitude: 28° 14' East

ザンビアへの道程(1986年当時)

ザンビアへは日本からどうやって行ったか(1986年当時)、私たちがザンビアへ行ったときのルートは、成田-アンカレッジ経由-ロンドン-ナイロビ-ルサカだった。 当時、ロンドンからブリティシュカレドニア航空(後にブリティシュ航空と合併)、ザンビア航空、パリからUTAフランス航空、フランクフルトからザンビア航空のルサカへの直行便があったが、このときはナイロビ経由だった。

ナイロビを経由すれば更に選択肢は増える。成田-ロンドンは-ナイロビまではブリティシュ航空(BA)、ナイロビルサカがザンビア航空(オリジナルはケニア航空)だった。このとき、ロンドンでBA出発が遅れ、ナイロビでケニア航空に乗継ができなくナイロビ一泊となった。よって、日本からザンビアまで2泊3日かかった。

その他の主要ルート
1)成田-アンカレッジ経由-ロンドン-ルサカ(ロンドンからBritish Caledoniaの直行便)
2)成田-アンカレッジ経由-パリ-ルサカ(パリからUTAの直行便)-このルートで一度帰国した
3)成田-カラチ-ナイロビ-ルサカ
4)成田-パース-ハラレ-ルサカ
などであった。

足掛け2日はかかっただろう。南十字星が輝く南半球、とにかく遠かった。
補足:
最近では、香港またはシンガポール、ヨハネスブルグ経由ルサカというルートが一般的である。香港からCX、SAがヨハネスブルグまでダイレクトフライトを運行している。また、、関空-ドバイ-ナイロビ-ルサカというルートもある。

ザンビアの日本人

ザンビアでは当時どのような目的で日本人が滞在し、住んでいたのだろうか?拾い上げると以下のようになる。(順不同)
1)日本大使館職員(専門調査員、派遣員、大使公邸料理人を含む)とその家族
2)JICA職員(JOCV調整員を含む)とその家族
3)JICA専門家とその家族
4)青年海外協力隊員
5)民間企業職員(商社、建設コンサルタント、建設会社等)とその家族
6)NGO職員(難民を助ける会(メヘバ))
7)宗教関係
8)学術調査関係(タンガニーカ湖魚類調査(短期))
など

当時、在留邦人は全てあわせても200人程度ではなかっただろうか。最も多かったのはJICA関係者、その中でもJOCVがマジョリティだったが・・・。

1986-88年当時の政治経済

南アフリカ・アパルトヘイト体制

南アによるANC亡命政府空爆(1986年5月)

モザンビーク大統領、墜落死(1986年10月)

IMFの構造調整の保留と食料値上げによる暴動(1986年12月-1987年2月)

IMFのと決裂

ナミビア亡命政府UN

モザンビーク内戦

アンゴラ内戦

(準備中)

ザンビアの地方行政

9プロビンス(Copperbelt, Northwestern, Western, Southern, Luapula, Northern, Eastern, Central, Lusaka )、72ディストリクトより構成される。


Provinces of Zambia

Province Capital  Area (km2)   Population Density /km2 Districts
Central Kabwe  94,395 1,012,257 10.7 6
Copperbelt Ndola  31,328 1,581,221 50.5 10
Eastern  Chipata  69,106 1,306,173 18.9 8
Luapula  Mansa  50,567 775,353 15.3 7
Lusaka Lusaka  21,898 1,391,329 63.5 4
Northern  Kasama  147,826 1,258,696 8.5 7
North-Western  Solwezi  125,827 583,350 4.6 12
Southern  Livingstone  85,283 1,212,124 14.2 11
Western Mongu  126,386 765,088 6.1 7
Zambia  Lusaka  752,616 9,885,591 13.1 72

Population figures are from the census of 2000

ザンビアの気候

熱帯性気候であるが、標高が1000-1350mと高地なのでしのぎやすい。 年降水量は500~1,500mm。 首都ルサカ(標高約1,200m)では1月の平均気温は21℃、7月の平均気温は16℃である。 乾季は5月~8月が涼しく、9月ー11月は暑い、12月~4月は暑い雨季である。乾季の5-6月がもっとも涼しく暖房が必要なくらい冷え込む。

 


ケネス・カウンダ大統領

私が赴任したときの大統領は1964年10月24日に独立を勝ち取ったカウンダ大統領が長年の政権を維持し顕在であり、ダーク色のサファリスーツと白いハンカチを左手にして演説する姿はトレードマークだった。

一度だけ直接演説を聞いたことがある。演説の前にチテンゲを着たザンビア女性が雄たけびのようなものを上げ前座を行い、それから、彼がザンビア英語で演説した。演説はその都度ローカル言語に通訳された。

1991年11月、複数政党制のもとでの大統領選挙で敗北、野党党首のフレデリック・チルバが当選した。カウンダは独立以来27年にわたった政権に終止符を打った。あたかも冷戦構造の崩壊と時を同じくした。

Kaunda Voted Out, 1991/11/02


熱帯高地と感染症

Malariaルサカは標高約1200mの熱帯高地に位置し乾燥していて健康的なのですがザンビアは感染症のデパートとも呼ばれほど症例は豊富のようです。マラリアはルサカにあっては罹らないと聞いていた。ルサカでマラリアに罹る場合ルサカから出て低地でハマダラ蚊に刺され、ルサカへ戻って発病というケースが考えられた。これはあくまでも推測なのでなんともいえないが、職場のザンビア人がよくマラリアで数日寝込んだということをよく聞いていたので本当のところどうだったのだろうか。協力隊員の場合はルサカに暮らしている限りにおいては問題はなかった。

A型肝炎は経口感染なので食べ物には気を付ける必要があった。生ものは口にすべきではない。我々の世代は抗体をもっていないので特に気をつける必要があった。ザンビア人はきっと抗体が子供の頃に出来ているのだろう、そんな病名は聞いた事がなかった。B型肝炎が発症した人を見たが、顔が黄色かった。B型の場合は性感染症または輸血で感染する。

ザンビア人に多かったのが結核。日本人にはほとんど無縁であったがまだまだザンビアでは猛威を振るっていた。

その他、耳にした感染症では、アメーバ赤痢、ランブルべん毛虫、細菌性の熱などがあった。アメーバ赤痢やランブルべん毛虫は感染だけで発症はしなかったようだ。検便等で見つかる。細菌性の熱は、擦過傷、例えば転んですりむいたなど、数日すると熱がでたりした。

感染症が克服されればルサカのような熱帯高地はきっと長生きが出来る土地になることだろう。

北ローデシア

ザンビアは、1964年10月24日の独立まで英国領北ローデシアという国でした。ローデシアという国名は、英国人植民者Cecil Rhodesの苗字からきている。東京オリンピック(1964年)の開会式は、北ローデシア国旗で入場行進し、開催中に独立、閉会式はザンビアの国旗で行進した。この話はよく知られている。

Zambia-flag
北ローデシア国旗(1953-63) ザンビア国旗

Cecil John Rhodes (1853-1902)と英国南アフリカ会社

Cecil John Rhodes

セシル・ローズ(Cecil Rhodes)は、南部アフリカ諸国の名(ローデシア)に名を残すほどの実業家であり、鉱山王であり、政治家であった。英国まれの彼は、英国南アフリ会社(The British South Africa Company (BSAC))を設立し、鉱山の採掘権を部族長から得ること(under questionable circumstances)によりこの地域での英国の影響を増大させた。英国南アフリカ会社(BSAC)は、Central Search AssociationとExploring Company, Ltd.の合弁を通して1989年英国公認を得てセシル・ローズにより設立された。英国東インド会社をモデルとしたBASCは、ヨーロッパ列強とともに"Scramble for Africa"(アフリカの奪い合い)のごとく中部から南部にいたるアフリカの植民地経営、経済探査を可能にすることを意図し、実行した。BASCの役員には、Duke of Abercorn(会長), Cesil Rhodes、投資家Alfred Beit等が就いていた。セシル・ローズは、ローズ奨学金の創設者でもある。


首都ルサカ

ルサカはヨーロッパ人の入植によって発展し、その土地のチーフLusaakaの名からLusakaと名づけられた。1935年、英領ローデシアの首都がリビングストンからルサカへ遷都している。ルサカは、標高1274m(4200 ft)、1986年当時、人口65万人といわれていた。現在の人口は 1,084,703人 (2000 census)である。

 

 

 

ザンビアのエンブレム等

Zambia emblem

ビクトリアフォールズとリビングストン

ビクトリアフォールズは世界三大瀑布に数えら、ザンビアとジンバブエの国境を流れるザンベジ川に位置する。ザンビア側はリビングストン(ルサカへ首都が移転するまでローデシアの首都であった。)、ジンバブエ側はビクトリアフォールズタウンである。アフリカの大地が描く自然の造形美といっても過言ではない。滝は、ザンベジ川の侵食により形成され、少しずつであるが年々後退している。空から見ると現在の滝の位置から下流方向にぎざぎざと渓谷が形成されているのが良くわかる。デビッド・リビングストンがこの滝を発見したことになっており、時の大英帝国ビクトリア女王にちなんでビクトリアフォールズと名づけたが、現地名は、 Mosi-oa-Tunya(雷鳴とどろく霧の柱)言う。

国境には橋が架かり(1904年)、道路と鉄道が通っている。現在は橋の上からバンジージャンプがあるらしいが、私としてはそんなものは止めてほしいと思っている。また、滝の直ぐ下からザンベジ川をゴムボートで下るラフティング(当時はSOBEKといった)があった。 歴史的には、この橋の上で1975年、ローデシア問題解決のため、南アのフォルスター首相、南ローデシア(現ジンバブエ)、UANC代表(南ローデシアの政党)、そして、ザンビアのカウンダ大統領が南アの用意した列車の中で会談した。

デビッド・リビングストン

ビクトリアフォールズをビクトリアフォールズと名づけた英国人宣教師、スコットランド、ブランタイア(Blantyre)出身。現地の言葉では、モシ・オ・トゥンヤ(霧が立ち上がる)。ムクシの辺りで亡くなり、バガモヨ(タンザニア)まで運ばれ、そこから亡骸が英国へ移送された。ムクシには記念碑があるという。リビングストンの名はビクトリアフォールズのザンビア側の町の名としても残っている。

1840年、南アフリカ支部の宣教師として現ボツワナのクルマンに居を構えた。リビングストンは布教する場所を探して内陸部の探検に出かけた。カラハリ砂漠を北上、ザンベジ川を経て1854年にコンゴ川まで達している。その帰途、ザンベジ川を下り、1855年11月17日にMosi-oa-Tunyaを見て、ビクトリアフォールズと名づけた。ザンベジ川を下り、現モザンビークのキリマネに到着した。これはヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断だった。この探検が第一回でその後2回アフリカ大陸を探検し、第3回目の探検中、コンゴ川水系のバングウェル湖 (Lake Bangweulu)南側のチタンポ村(ザンビア北東部)でマラリアにより1873年5月1日死亡。リビングストンを捜索するため、ヘンリー・スタンリー(ウェールズ生まれの米国人ジャーナリスト)が派遣された。彼はリビングトンとタンガニーカ湖ウジジで対面し4ヶ月ほど同行しその後英国へ旅立っている。リビングストンの死後、スタンリーはナイルの水源探求の遺志を継いでアフリカに戻り、ルエンゾリ山(ウガンダとコンゴ民の国境)でナイルの源流を突き止めた。


ソニークロフト・ジラフィThornicrofts Giraffeとサウスルアングア国立公園

ザンビアにしかいないキリンの種類(亜種)。ザンビアでもサウスルアングア国立公園内だけらしい。当時、東部州の州知事だったソニークロフトさんが発見したので彼の名前がついている。どこが他のキリンと違うかというと、網目の模様だそうだ。 職場の上司であった公共事業省建築局長がThonicroft氏だった。彼は、孫にあたる。


同志 Comrade

もうこんな言葉は新聞には出てこないだろう。本家が崩壊したのだからそうに違いない。私がルサカに暮らしていた80年代後半、Times of ZambiaではこのComradeを敬称に使っていた。

ザンビア通貨クワチャ

ザンビアの通貨はクワチャ(kwacha)といい、1クワチャ=100ングエだった。紙幣と硬貨があったが、私が暮らした2年間でもインフレが激しく、後半はングエ硬貨は流通しなくなっていた。聞くところによると、現在の交換レートは1ドル=5000クワチャだという。当時は1ドル=5-6クワチャだった。

カウンダ元大統領の肖像が印刷されたクワチャ紙幣、もうないだろうね。クワチャとは夜明けという意味だったと思う。左の画像中段は見慣れない紙幣であることから1989年7月に移行した新札だろう。

 

私が使っていた紙幣:1 Kwacha, 2Kwacha, 5 Kwacha, 10Kwacha, 20 Kwacha, 50 Kwacha.


1986-88年当時の通信事情

電話はフラットにはなかったので、入居してから申し込んだ。前任者の話によると1-2年待っても敷設してもらえるかどうかわからないとの引継ぎだった。実際には私が離任してから電話が引けたので2年程度時間を要したことになる。そういう状況だったので電話を書ける場合、電話のある知人宅で借りるか、ルサカの中央郵便局へ行かなければならなかった。

郵便局では、ヨーロッパの郵便局もそうだが、電話番号を書いて窓口で申し込み、しばらく待っていると何番の電話ですといわれるので受話器をあげると呼び出し音が聞こえて繋がった。話し終わると、何分何秒なのでxxxクワチャというのでその料金を支払う。なんとものどかなものだった。

ちなみにザンビアの国番号は+ 260 (Zambia)だ。

郵便事情は比較的よかった。日本まで4日で届いたことがあったが7日程度で届いていたようだ。郵便は配達はなく、職場近くの郵便局にある私書箱を譲りうけていたので毎日のように何か届いていないか確認していた。

ザンビア航空 Zambia Airways

ザンビアのナショナルフラッグは、Zambia Airwaysだ。 国際線は、ロンドン、フランクフルト、ナイロビ、ダルエスサラーム、ハラレ、ヨハネスブルグ、ルブンバシ等へ飛んでいた。国内線はリビングストン、ムフエ(サウスルアングワ)、ンドラ等だった。DC-10, B737-200等を数機リースし国際線で、ATRは国内線に就航していた。

国際線の長距離は現在運行していないようだ。せいぜい、ダルエスサラーム、ヨハネスブルグまで。(2008年4月)


Intercontinental Hotel Lusaka

ルサカで一番高級なホテル、日本大使館の前にあったインターコンチネンタルホテル、ルサカの他、リビングストンのビクトリアフォールズ脇にもあった。ルサカに住んでいたので泊まったことはないが、リビングストンのは一度泊まった。ジンバブエ側のホテルと比較すると、完全に名前前負けしていた印象だ。そのほか、Taj系パモジホテル、リッジウェイホテルがあった。

HAILE SELASSIE AVENUE PO BOX 32201
LUSAKA, ZAMBIA

Tel: 260-1-250000 | Fax: 260-1-250895


東ドイツIFA製トラック

IFA東ドイツIFA製のトラックがザンビアの各地で走っていた。これは軍用車であったが民生利用に活躍していた。メイズや他の農産物などを満載して走っていた。どうも、直ぐに故障するらしくスクラップ置き場には何十台のIFAが放置されていた。ザンビアへは、ダルエス・サラーム港に陸揚げされ、そこからタンザン鉄道で運ばれていた。
参考:

It's an IFA W50 from the East-German army. The truck is built for hardest terrain, has differential locks, tire pressure control (during drive), a 6.5 Liter Diesel engine and is very easy to maintain.

IFA W50. This East German manufactured truck was seen at and Army rally in Kent in 2003. The company which was started in 1948 was taken over by Daimler-Benz in 1990

Pete's Stake House

ノースミード商店街の一角にあったステーキハウスとバー。ここのスペアリブは隊員の間では名が知れていた。その他に、Tボーンステーキ、フィレステーキ、タンドーリチキンなどがあり、どれもいい味だった。地方隊員はルサカへ出てこのステーキハウスで食事することを楽しみにしていた人も少なくなかった。

最近、ノースミードにはこのようなステーキハウスはないとの情報から移転先を探していたのがやっと見つかった。鉄道駅近くのタウンセンターで営業しているようだ。(2008年1月)

Mr.Pete's

223428
Panganani Rd - Town Centre
Behind ZRA

任国外旅行

2年間の派遣期間の途中で認められた周辺諸国への旅行ができる任国外旅行という制度があった。

航空券は以下のルートを購入した。

ルサカ‐ダルエスサラーム‐ザンジバル‐モンバサ‐ナイロビ‐ハラレ‐ルサカ

 

モンバサから陸路でラム島まで行ったが、復路はラム島から直接、ナイロビへ飛んだ。

帰路変更

帰路変更と称して任期満了してから日本へ帰国するまで30間の自由旅行期間が設けられていた。南部アフリカはボツワナのハボローネ、スワジランドを、本来はヨハネスブルグを見たかったがビザを準備する時間がなかった。

帰路

ルサカからザンビア航空でフランクフルトへ、そしてパリとロンドンへ。

JALでロンドンから成田へはJALで。

 

番外:座禅訓練

Zazenザンビアへ赴任する前、広尾での研修期間中に座禅訓練というカリキュラムがあった。3泊4日だったか、豊橋の禅寺へ全員で出向いた。とにかく健康的だったこと、それから、板の間に座ることの苦痛(私だけ)を良く覚えている。そのときの集合写真、スキャンの精度がそれほど良くないが、同期の面影は確認できる。


私の記憶より