ザンビアの近隣諸国(隣国マラウイへーブランタイア)
ザンビアへ赴任していた2年間に近隣諸国へ足を伸ばす機会があり、東アフリカのインド洋沿岸へ旅行した。また、ザンビアの東に位置する国マラウイへも、そして、任期満了時になかなか行くチャンスがないだろうと南部アフリカのボツワナとスワジランドへ旅行した。
Blantyre, 1987年の末だろうか
Map | all01 | all02| Blantyre | Lilongwe |
いつだったかはっきり覚えていないが、確か1987年暮れだっただろうか、ザンビアのチパタ(Chipata)に赴任している友人を訪ねていたとき、その友人がチパタ在住の英国人牧師がブランタイヤまで車で行くことを聞きつけてきたので相談したところ一人なので乗れるよということだった。これ幸いとばかり、牧師の車に便乗させてもらいマラウイへ行くことにした。事前に再入国ビザを取得しておいた効果があったということだ。
ブランタイアの後、行きに立ち寄らなかったリロングエで一泊した。
(左の地図はリロングエを示しているので差し替え予定)
チパタからブランタイアへ、牧師と共に
チパタからムチンジ(Muchinji)を経てマラウイへ入国、ブランタイアまで行った。ムチンジのマラウイの首都は現在リノングウェだがそれまではブランタイヤが首都だった。
リロングエからブランタイヤまではM2という幹線道路を南下する。途中この道路のセンターラインがモザンビークとマラウイの国境になる。南下はマラウイ側を走り、北上はモザンビーク側を走ることになると牧師が説明してくれた。 M2を南下していくと左手眼下には大地溝帯を構成するマラウイ湖が見渡せる。右手(西側)にはモザンビーク人の集落が所々広がり、道路を挟んで反対側にも同様に広がる。よく見るとモザンビーク側には人影が見えない。それは内戦中だったのでマラウイ側へ避難しているとのことだった。
Queen Elizabeth Central Hospital
ブランタイアでは知り合いの家に泊めてもらった。彼はJOCVとしてクイーンエリザベス中央病院へ医師として赴任していたので職場を翌日見学させてもらった。丁度診察中であり、そのときにこの写真を撮影した。他にもこの病院には栄養士と看護婦のJOCVが活動していた。 帰り際、玄関のところで米国平和部隊の看護婦2人と出会った。彼等は陽気に挨拶してくれた。ザンビアではスパイ容疑がかけられ平和部隊は引き上げてしまっていただけに新鮮だった。当時ザンビアはソ連邦寄りの政治体制をしいていたので致し方なかったのだろうか。
アメリカ平和部隊の看護婦 (Queen Elizabeth Central Hospital) |
QECHで働くDr.Suzuki (青年海外協力隊員) |
緑濃いブランタイアの町
とにかく緑の中の街というのがブランタイアの印象だった。
緑多いブランタイヤの街 | 緑の中の家 |
マラウイ工科大学 |
マラウイについて
マラウイについて
マラウイも英国植民地のひとつでザンビア(元北ローデシア)とジンバブエ(元南ローデシア)でローデシア・ニアサランド連邦を構成していた。マラウイは周辺諸国と比べると天然資源も産業も特筆すべきものがなかった。主たる産業は南アフリカへの鉱山への出稼ぎと紅茶のプランテーション(ゾンバ周辺)だった。
ブランタイアにてお世話になる
牧師にはJICA事務所まで送り届けてもらった。そこでザンビアで面識ができた秘書隊員と会い、同期に連絡してもらった。事前に連絡をしないでまったく失礼だったが、わざわざザンビアのルサカからやって来たということブランタイアの隊員が集まった。非礼ながら歓待を受け更に同期の家に泊めてもらった。
ブランタイアの記憶
この都市はとにかく緑に溢れていた。ルサカも緑が多い都市であるがさらにブランタイアは緑が多く、森の中に都市があるようなこじんまりとした旧首都だった。
当時南部アフリカ諸国は南アのアパルトヘイトに強行に抵抗していたのだが、マラウイは経済的な理由から対南ア政策は緩やかであった。ザンビアでは、市内のスーパーマーケットには南アへの経済制裁が強まり輸入が減少していたが、ここマラウイでは南アの製品が溢れていた。
ブランタイアのスーパーマーケット
ルサカにはない商品に溢れたスーパーマーケットだった。商品はどこから来ているのだろうかと何点か手に取り確認するとほとんどが南ア製だった。ジンバブエ製もかなりあった記憶だが、マラウイ製品は非常に少なかった印象だ。なんでこんな市場調査みたいなことをしているんだろうと、後で考え直すと可笑しい。よほどザンビアでは商品が種類が限られていたのだろう。
マラウイの地図
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